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脱、完璧志向。

いろいろ悩むことが多いです。
何故悩むのか。
eiちゃんとよくいろんな問題について話します。
電話代がかさんでいます。
eiちゃんごめんね、Tigo買います。

私は常にドラスティックな解決を求めてしまう。
完璧にすべてきれいに片付けないと無意味なんじゃないかと思ってしまう。
だけど、何においても根本的な解決なんて不可能で、その場その場で臨機応変に対応していくしかない。
でも、どうしてもそれがその場しのぎのような気がしてしまう。
でもその場しのぎが大切なんだろうな。
例えば、掃除でもそうです。
完璧にしようと思うと気が遠くなって手をつけられない。
でもその場しのぎに目の前のゴミをゴミ箱に入れることで、部屋が少し快適になる。

こんなことを最近考えるのは、私には貧困っていうものが理解できないんだな、という自己反省からです。
身の回りにお金で困っている人がたくさんいます。
知り合い、近所の人、知り合いの知り合い。
私の任地の前任者と親交が深かったある知り合い一家は、お金に困ったときその日本人に援助してもらったりしています。
その家族は日本人はお金に困っていないということを実際によく知っているので、私自身はあまり付き合いは深くないのですが、お金を貸してくれと言われたりもします。

なんだろうなー、なんかその家族、やたらラッキーじゃないって思っちゃうんです。
日本人と仲良くしていることによって、お金を頼ることができる。
でもその家族以外にも困っている人なんてたくさんいて。
私は困っている人みんなを助けることなんてできないけど、だからといって困っているということを言ってくる知り合いだけ助けるなんて、なんだか不公平だし。
お金を持っている友達作った者勝ちというか。
って考えると、困っている知り合いにお金を貸してあげるのが気が進まない。
他の困っている人に対して悪いことをしているような。
要求した者勝ちというか。

うーん。
ここまで書いてて思ったけど、私は結局腹の底からの個人的な付き合いができていないんだろうな。
セネガル人全体、とか、困っている人全体を俯瞰して物を言ってる。
個人として深く付き合っていると、その人が困っていると助けてあげたいって自然に思うだろうし。
ということは、彼らは付き合いが深くもないのに、お金を要求してくる無礼者ということか。
通りすがりでお金頂戴って言ってくるおばちゃんたちや子どもたちと一緒ということか。
でもそんな8ヶ月やそこらの付き合いで、腹の底からの付き合いなんてできるのかな。
でも日本人とだったら3日あれば相当仲良くなれるように思う。
やっぱり私は相当バリアを張っているんだろうな。
文化も考え方も違うし、経済観念も違うから、ある程度は警戒しなきゃいけないとは思うけど。
頭の固い日本人です。

まー頭の固い日本人なりにがんばります。
気の置けないセネガル人の友達を作ります。


どうやら日本人って特殊らしいです。
貧しい人は裕福な人に頼って生きてたり、その日の生活を何とか成り立たせているもので、
それなら、お金がある人にお金を要求するのは当たり前で。
そういうのが見られない日本は本当に発達しているんだな、と。
お金や職業を手に入れるのも、その人の努力以上に、チャンスがあるかないかがここでは大きい。
チャンスは平等ではなくて、タイミングだったり、自分で貪欲に手を伸ばしたりして手に入れるものなのです。
だから、とりあえず、お金頂戴って言ってみるんだろうな。

私はいろんな意味で弱者の立場に立ったことがありません。
五体満足に生まれてくることができて、お金に困ったこともなく、テストで悪い点をとった経験もあまりない。
だからわからないことがたくさんある。
そういう意味でコンプレックスを感じていて、罪悪感を持ったり落ち込んだりする。
自分の問題はここだな、と、さっきeiちゃんと話してて思いました。
私がテストで100点取ったとき、10点しか取れなかった子に対して罪悪感を感じてしまう。
100点を取った自分を素直に喜べない。
そして10点を取ったことがないから、その子の気持ちがわからない。
でもなんだか悪いことをしてしまったような気がしてしまう。
今、私は生活してて、例えば新しい服を買ったとき、その服を外に着ていくのに若干勇気がいる。
お金があると思われるのが怖い。
でも平等なんてありえなくて、彼らは私たちにお金があることなんてわかっているし、貧富の差を感じることなんて日常茶飯事で特に何も思わないみたいだし、私が非難されているように感じる彼らの言動も、決して非難しているわけではない。
eiちゃんに言われたのは、みんな生活を楽しむ権利があるということ。
私は周囲の人に必要以上に引け目を感じてしまう。
お金には困ってないし、贅沢品を買うことができる。
でもそんな贅沢品は私が生活を楽しむ上では必要なものだけれども、周りの人はそれを見てお金を頂戴と言う。
そこでお金をあげずに自分の生活を楽しむ私はひどい人間なんじゃないか、と。
でもみんなとりあえず言ってみているだけで、それで少しのお金でももらえたらラッキー、くらいの気持ちだし。
でもいちいち物事を深刻に考えてしまう私は、この人にちょっとあげてしまうと他の人にもあげなきゃいけない、他の人たちに不公平だ、とか。
まぁそんなその辺の人にあげる必要はないですが。
何が言いたいかというと、罪悪感を感じてしまって、しんどいことが多い、と。
なかなか割り切れないなー。

セネガル人の考え方は「自分が100円持ってて、自分の生活には50円あれば足りるのであれば、困っている人がいれば50円あげる」という感じだそうです。
生粋の日本人である私はその日暮らしのお金の使い方はしないし、でも明日何があるかわかんないし!ってなる。
ある程度持っていないと落ち着かないし。
けど、セネガル人は、もし明日何かがあったら、他の人に助けてもらうんだろうな。
持ちつ持たれつ、なんでしょうね。

だから、私が困っている人を助けてあげたら、その人も私が困っていると助けてくれるようになるんだろうな。
でも、私はその人たちとずっと近くで付き合っていくわけじゃないし。
って思うと、・・・また罪悪感だな。

なんていうか、私は今こうしてここで生活しているけど、また発展した日本に帰るわけだし、どうしてもある程度しかわかることができないって思う。
でも、もっと力抜いて一緒に楽しく生活すればいいじゃないっていうのが最近の私のテーマです。
ここで生活している間は一緒に生きていくわけだし、バランスをとってやっていきたい。
なんだろうな、何に関しても、その全体像を見てしまって無力感に陥るというか。
例えば目の前の困った人を今日助けたとして、じゃあ明日はどうなる、他の困っている人はどうなる、とか。
根本的には何も解決しないじゃないか、と。
でもきっと明日は明日でどうにかがんばるんだろうし、他の人は他の人でなんとかやっていくんだろう。
とりあえずその場しのぎ、それにも大きな意味があるんだろうな。
だって今日が何とか無事に終わるんだから。


活動にしてもそのような問題があります。
私の活動で何かが変わるのだろうか、何が残るんだろうか、抜本的な改革はできないのか。
などと、考えてしまいます。
そんな大層なことが簡単にできるわけありません。
できるならもうみんなやってます。
大切なのは日々の一挙手一投足。
それが誰かの心に少しでも響くときがくればいい。
そこに意味があるということをeiちゃんが私に教えてくれます。


ところで月曜日かな、とんでもない大雨が降りました。
家の前が海みたい。
子どもが泳いでいました。
一番深いところで太ももまで水が、、、
家の中まで水浸しのところもありました。
大変です。。P9201321.jpg

P9201323.jpg
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